春の七草は、たいていの人が知っています。一月七日に七草粥を食べる、あの行事のおかげです。ではもう一方の、秋の七草はどうでしょう。名前は聞いたことがあるけれど、七つ全部を言えるかと聞かれると、少し言葉に詰まる。そういう方がほとんどではないかと思います。
それもそのはずで、秋の七草は「食べる」ものではありません。粥にもしませんし、行事の日も決まっていません。ただ、秋の野に咲いている花を、七つ数えただけ。千三百年ほど前に、ひとりの歌人が指を折って数えた——それが、今日まで続いているのです。
この記事では、秋の七草の七つの花をひとつずつ、花屋の目線でご紹介します。姿、見ごろ、名前の由来、そして「切り花として手に入るのか」まで。最後には、七つ全部をそろえなくても秋を感じられる、現実的な生け方の提案もお伝えします。

秋の七草って、お店で全部そろうものなんですか?

正直に申し上げると、七つ全部を同じ日にそろえるのは、なかなか難しいんです。切り花としてよく出回るものと、ほとんど出回らないものがはっきり分かれていまして。ただ、そろわないから諦める、というのはもったいない話でして。二つ三つでも十分に秋になりますよ。
秋の七草とは——七つの草花の名前
まず、名前から確認しておきましょう。秋の七草は、次の七つです。
- 萩(ハギ)——マメ科の低木。小さな蝶のような花を枝いっぱいに垂らします
- 尾花(オバナ)——ススキのこと。穂が動物の尾に似ていることから
- 葛(クズ)——マメ科のつる植物。赤紫の花房と、あの葛粉の原料
- 撫子(ナデシコ)——ここでは日本自生のカワラナデシコを指します
- 女郎花(オミナエシ)——黄色い小花が霞のように集まって咲きます
- 藤袴(フジバカマ)——淡い藤色。乾かすと桜餅のような香りが立ちます
- 桔梗(キキョウ)——星形の紫。つぼみが風船のようにふくらむ花
並べてみて、気づかれたことはありませんか。どれも、はなやかに咲き誇る花ではありません。むしろ、細くて、素朴で、風に揺れているような草花ばかりです。バラやユリのような「主役」の顔をした花は、ひとつも入っていない。
これは偶然ではないと、私は思っています。秋の七草は、野に出て、ふと足元や道端に目をやったときに見えてくるものたちです。探しにいく花ではなく、気づく花。その視線の低さが、そのままこの七つの性格になっているような気がするのです。
始まりは万葉集。指を折って数えた七つ
秋の七草の始まりは、奈良時代の歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ二首の歌だと言われています。『万葉集』の巻八に収められた、一五三七番と一五三八番の歌です。
一首目は、こう始まります。「秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種の花」。秋の野原に咲いている花を、指を折って数えてみたら、七種類あった——それだけの歌です。飾りも、たとえも、ほとんどありません。
そして続く二首目で、その七つの名前を並べます。「萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝貌の花」。ただ名前を七つ、順に呼んだだけ。五・七・七・五・七・七という旋頭歌(せどうか)という形式で、当時としてもやや珍しい詠み方でした。
私はこの二首が、たまらなく好きです。技巧がない。感想もない。ただ「七つあった」と言っているだけです。けれど、だからこそ、千三百年前の秋の野が、そのまま目の前に立ち上がってくるような気がします。憶良という人が実際に野に立って、風に揺れる草を見ながら、本当に指を折っていた。その手の動きまで見えるようです。
山上憶良は、貧しい人々の暮らしや、子を思う親の気持ちを詠んだ歌でも知られる歌人です。生活の目線を持った人が、秋の野草を七つ数えた。その組み合わせが、この七草の素朴さとどこか響き合っているように思えてなりません。

(歌に詠まれたから七草になったのか、もともと七草だったから歌になったのか……どっちなんだろう)
精霊くんの疑問はもっともです。これについては、憶良が「秋の代表的な草花」として当時よく知られていたものを詠んだのだという見方と、憶良の歌が広まったことでこの七つが定着したのだという見方の、両方があります。どちらが正しいと断言できるものではありませんが、少なくとも「この七つ」というかたちで後世に伝わったのは、この二首がきっかけだと考えられています。
「朝貌の花」は何の花か——諸説あるミステリー
ここで、ひとつ引っかかることがあります。憶良が挙げた七つ目は「朝貌の花(あさがおのはな)」でした。冒頭で私は七つ目を「桔梗」と書きましたが、歌そのものには桔梗という言葉は出てこないのです。
この「朝貌」が何を指すのかについては、実は諸説あります。代表的なものだけでも、次のような説が知られています。
- 桔梗(キキョウ)説——現在もっとも有力とされる説
- 木槿(ムクゲ)説——朝に咲いて夕方にしぼむ性質から
- 昼顔(ヒルガオ)説——同じヒルガオ科の在来種であることから
- 朝顔(アサガオ)そのもの説——文字通りに読む説
このうち、最後の「そのまま朝顔」という説には、時代の面で疑問が持たれています。私たちが今日思い浮かべるアサガオは、憶良が生きた時代の日本にはまだ広く知られていなかったのではないか、という指摘があるためです。植物学者の牧野富太郎も、この点を根拠のひとつとして桔梗説を支持したと言われています。
ただし、これも「確定した事実」ではありません。千三百年前の言葉が何を指していたかを、今から完全に証明することはできないからです。ですから今日でも、秋の七草の解説には「朝貌の花=桔梗とされる(諸説あり)」という但し書きがついて回ります。

うちの店の名前が桔梗屋ですから、この話になるとどうも肩に力が入ってしまいましてね。でも、答えが出ないままというのも、悪くないと思うんです。名前がひとつに決まらない花が、千年以上ずっと語り継がれているというのは、それ自体が面白いことでしょう。
春の七草との決定的な違い——「食べる」と「見る」
秋の七草の性格をいちばんよく表しているのが、春の七草との違いです。ここは、この記事でいちばんお伝えしたいところでもあります。
春の七草は「食べる」
春の七草は、せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ。一月七日の「人日(じんじつ)の節句」に、これらを刻んで粥に入れ、無病息災を祈って食べます。すずなはカブ、すずしろはダイコンで、いずれも食べられる草です。
年末年始のごちそうで疲れた胃を休める、という実用的な意味づけで語られることも多いですね。中国から伝わった風習が日本の若菜摘みの習慣と結びつき、時代を経て粥のかたちに落ち着いていったと言われています。つまり春の七草は、行事食なのです。日にちが決まっていて、体に取り込む。目的がはっきりしています。
秋の七草は「見る」
いっぽう秋の七草には、粥もなければ、決まった日もありません。厄除けの意味づけも、健康祈願の言い伝えも、基本的にはついていません。ただ、見て、季節を感じる。それだけです。
実際、七つのうち食用として親しまれているのは葛(葛粉・葛根湯)くらいで、萩や桔梗や女郎花を食卓にのせる習慣は、一般的にはありません。むしろ、細い茎や散りやすい花びらは、料理の材料としては扱いにくいものばかりです。
この違いを、私はこう受け止めています。春は、生き延びるための季節でした。冬を越えて、ようやく緑が出てくる。だから食べる。秋は、実りを終えて、これから冬に向かう季節です。何かを得るというより、過ぎていくものを見送る。だから、食べずに、見る。
春の七草を知っている人が多くて、秋の七草を言えない人が多いのは、たぶん「使い道がない」からです。でも、使い道がないことこそが、秋の七草の値打ちなのだと思います。役に立たないものをわざわざ七つ数えて、歌にして、千三百年も伝えてきた。そういう国に、私たちは住んでいるのです。
七草それぞれの話——姿・見ごろ・名前・切り花としての顔
ここからは、七つをひとつずつ見ていきます。憶良の歌の順番——萩、尾花、葛、撫子、女郎花、藤袴、そして朝貌(桔梗)——に沿って進めましょう。それぞれ最後に、花屋として「切り花で手に入るか」にも触れます。
萩(ハギ)——枝ごと揺れる、秋の入り口
萩はマメ科ハギ属の落葉低木の総称です。「草」と思われがちですが、木の仲間。細い枝がしなやかに垂れ下がり、その全体に小さな蝶形の花がびっしりと並びます。紅紫のものが多く、白花もあります。
花の時期は七月から十月ごろ。秋の七草の中では早めに咲き始め、お彼岸のころに盛りを迎えるものが多いです。一輪ずつを見れば、指の先ほどの、ごく地味な花です。けれど枝ぶり全体で見ると、風が吹くたびに枝先から花がこぼれるように揺れて、まったく違う表情になります。萩は「一輪」で見る花ではなく、「ひと枝」で見る花です。
名前の由来には諸説あり、毎年古い株から新しい芽がよく出ることから「生え芽(はえき)」が転じたという説がよく紹介されます。漢字の「萩」は、草かんむりに秋。この字を当てた人の感覚が、そのまま季節を言い当てています。
お彼岸の「おはぎ」の名も、この萩に由来すると言われています。小豆の粒々が、萩の花の散る様子に見立てられたのだとか。ちなみに春の「ぼたもち」は牡丹から。同じものを、季節の花で呼び分けているわけです。
切り花としては——枝ものとして流通することがあります。ただ、萩は花や葉が散りやすく、水が下がりやすい性質があります。持ち帰ったらすぐに水に入れ、枝先を切り戻してあげてください。散ることを前提に、散る様子ごと楽しむくらいの気持ちで飾るのがおすすめです。
尾花(オバナ)——ススキのこと
尾花とは、ススキのことです。穂の姿が動物の尻尾に似ていることから、そう呼ばれます。イネ科の多年草で、河原や土手、山の斜面など、日当たりのよい開けた場所に大群落をつくります。
穂が出るのは八月末ごろから。出たての穂は赤みを帯びて、まだ固く締まっています。それが秋の深まりとともに開いて、白い綿毛をまとった姿に変わっていく。同じススキでも、九月と十一月では別の植物のように見えます。この「変化していく」ところが、ススキのいちばんの見どころだと私は思っています。
中秋の名月にススキを供える風習は、よく知られていますね。稲穂に見立てて実りを願ったとも、鋭い葉が魔を払うとも言われます。ススキは古くは「茅(かや)」と呼ばれ、屋根を葺く材料としても暮らしを支えてきました。飾るための草でありながら、実用の草でもあった。七草の中では、いちばん人の生活に近い植物かもしれません。
切り花としては——七草の中で、もっとも手に入りやすい存在です。お月見の時期になると、多くの花屋の店先に並びます。長さがあって、線が美しく、他のどんな花とも喧嘩しません。「秋の七草を家で楽しみたい」と思ったとき、まず頼るべき一本です。

ススキって、飾っているうちに穂がほわほわ開いてきますよね。あれ、掃除は大変ですけど、変わっていくのが面白くて。
ススキの穂が飛ぶのが気になる方には、乾かしてから飾るという手もあります。逆さに吊るして数日置くと、綿毛の飛散が落ち着くことがあります。ただ、開いていく過程こそが秋そのものですから、私は飛ぶままにしておくほうが好きです。
葛(クズ)——七草でありながら、手強いつる植物
葛は、七草の中でいちばん語りがいのある植物かもしれません。二つの顔を持っているからです。
まず、花。マメ科のつる性多年草で、夏の終わりから秋にかけて、赤紫の花を穂状に立ち上げます。房の下から上へ順に咲き上がっていき、甘い香りを放ちます。この花は、意外と知られていません。葛の葉があまりに目立つので、花に気づかないまま通り過ぎてしまう人が多いのです。土手の緑の茂みをよく覗いてみてください。奥のほうに、ひっそりと紫の房が立っていることがあります。
もうひとつの顔は、その旺盛さです。葛のつるは十メートル以上に伸び、条件がよければ一日に数十センチ伸びることもあると言われます。地面を這い、節から根を下ろし、樹木や電柱にまで登っていく。冬に葉が枯れても、地下の太い塊根は生きています。日本の河原や高速道路脇が緑一色に覆われているのを見たことがあるでしょう。あれの多くが葛です。
この強さは、海外では問題にもなりました。葛は十九世紀後半にアメリカへ導入され、飼料や緑化・土壌流出防止の目的で広く植えられましたが、繁殖力が強すぎて手に負えなくなり、駆除の難しい雑草として扱われるようになりました。国際自然保護連合(IUCN)による「世界の侵略的外来種ワースト100」にも挙げられています。
いっぽう日本では、その太い根から採れるでんぷんを葛粉として使ってきました。葛餅、葛切り、葛湯。風邪のひきはじめに飲む葛根湯も、この根が原料です。つるからは繊維を採って布を織りました。「厄介者」と「恵み」が同じ植物の中に同居している。
秋の七草に葛が入っているという事実を、私は面白く思います。憶良は、この植物の暴力的なまでの生命力も、当然知っていたはずです。それでも花を数えた。整えられた美しさだけを愛でたのではなく、野そのものを見ていた証拠のように思えるのです。
切り花としては——ほとんど流通しません。つるが長く、葉が大きく、水も下がりやすい。切り花としての扱いに向いていないのです。葛は、買って飾る花ではなく、野で会う花だと思ってください。九月の川べりを歩けば、たいてい見つかります。
撫子(ナデシコ)——撫でたくなる、細やかな花びら
秋の七草の撫子は、日本に自生するカワラナデシコ(河原撫子)を指すとされます。ナデシコ科の多年草で、細い茎の先に、淡紅色の花を咲かせます。花びらの先が糸のように細かく裂けているのが特徴で、この繊細さがこの花のすべてです。
花期は七月から十月ごろと長く、夏から秋にかけて咲き続けます。名前の「ナデシコ」の由来は、撫でたくなるほどかわいらしい子——「撫でし子」から来ているという説がよく紹介されますが、これも諸説あります。
「大和撫子(やまとなでしこ)」という言葉は、この花に由来します。平安時代に中国から渡来した唐撫子(からなでしこ、セキチクの仲間)と区別するために、在来種のほうを大和撫子と呼んだのが始まりだと言われています。細い茎に可憐な花をつける姿を、日本の女性の美しさになぞらえたわけです。
ただ、この花を実際に野で見ると、「可憐」という言葉だけでは足りない印象を受けます。カワラナデシコは名前のとおり河原や日当たりのよい草地に生えますが、そういう場所は乾燥して、日差しが強く、決して優しい環境ではありません。あの細い茎で、あの砂利の中に立っている。強さがなければできないことです。
なお、カワラナデシコの野生の姿は、都市化や草地の減少によって以前より見かけにくくなったと言われています。地域によっては保護の対象とされているところもあります。
切り花としては——ナデシコの仲間(ダイアンサス)は花屋の定番で、一年を通じてよく見かけます。ただし店頭に並ぶものの多くは園芸品種で、カワラナデシコそのものとは姿が違います。七草の趣を求めるなら、花びらの切れ込みが深く、茎が細く、色が淡いものを選ぶと近い雰囲気になります。ご相談いただければ、そういう視点でお探しします。
女郎花(オミナエシ)——秋の光の色
女郎花は、細い茎をすっと立ち上げ、その先に黄色い小花を霞のように咲かせます。ひとつひとつの花は数ミリしかありませんが、それが平たく群れて咲くので、遠目には黄色い雲が浮いているように見えます。
花期は夏の終わりから秋。高さは一メートル前後になることもあり、七草の中では背が高いほうです。風に揺れると、黄色い部分だけがふわりと動く。あの軽さが、女郎花の魅力です。
名前の由来には、いくつもの説があります。「オミナ」は古語で女性を意味し、「圧(へ)す」——女性の美しさをも圧倒するほど美しい、という意味の「オミナヘシ」が転じたという説。また、かつて白い米の飯を男性が、黄色い粟の飯を女性が食べたことから、黄色い小花の集まりを粟飯に見立てて「女飯(おみなめし)」と呼んだという説もあります。どちらも確定していません。
もうひとつ、女郎花には知っておいたほうがいい特徴があります。独特の匂いです。花そのものにもクセがありますが、とくに水に挿しておくと、花瓶の水が独特のにおいを放つことがあります。生薬名の「敗醤(はいしょう)」も、この匂いに由来すると言われています。

え、においが強いんですか。飾らないほうがいいですか?

いえいえ、飾っていただいて大丈夫ですよ。ただ、水をこまめに替えていただくのが肝心でして。二日に一度でも替えれば、ずいぶん違います。気になる方は寝室ではなく、玄関や風の通る場所に置くのがおすすめです。
切り花としては——秋の時期には比較的よく見かけます。茶花としても親しまれていて、和の器に一本挿すだけで、しっかり秋になります。線が細く、他の花の邪魔をしないので、ススキと組み合わせるにも向いています。水替えの手間だけ、少し覚えておいてください。
藤袴(フジバカマ)——桜餅の香りがする花
藤袴は、キク科の多年草です。淡い藤色がかった小花が、平らな房になって咲きます。派手さはまったくありません。遠目には、ほとんど白っぽい霞に見えます。
この花のいちばんの特徴は、香りです。生の状態ではほとんど香りませんが、刈り取って半乾きにすると、桜餅のような甘い香りが立ちのぼります。これは植物に含まれるクマリン配糖体が、乾燥の過程で分解されて香り成分に変わるためだと説明されています。桜の葉の塩漬けが香るのと、同じ仕組みです。
この性質から、藤袴は古くから香草として使われてきました。乾かして袋に入れ、衣に香りを移したり、湯に入れたりしたと言われています。「見る花」である秋の七草の中で、唯一「使われてきた」歴史を持つのが、この花かもしれません。
そして、藤袴には心配な事情があります。環境省のレッドリストで準絶滅危惧(NT)に選定されている植物なのです。藤袴は本来、川の氾濫原のような、水気があって定期的に土がかき乱される環境を好みました。ところが治水工事や河川改修が進んだことで、そうした環境が失われ、乾燥化した土地には他の丈夫な草が入り込みます。結果として、藤袴の生育できる場所が減っていったと考えられています。
各地で保全の取り組みが行われており、京都をはじめとして、地域の団体が育てた株を公開している場所もあります。もし機会があれば、そういう場所を訪ねてみるのもいいと思います。
なお、園芸店や花屋で「フジバカマ」として売られているものの中には、近縁の別種や交配種が含まれることがあります。姿は似ていますが、厳密には在来のフジバカマとは異なるものです。買うときに種類を気にする必要はありませんが、「在来のフジバカマは減っている」という背景は知っておいていただけたら嬉しいです。
切り花としては——秋に出回ることがあります。数は多くありませんが、茶花を扱うお店では見かけます。飾ったあと、しおれてきたものを捨てる前に、少し乾かしてみてください。あの桜餅の香りに出会えたら、この花のことを一生忘れないはずです。
桔梗(キキョウ)——風船のつぼみと、星形の紫
そして、七つ目。桔梗です。当店の名前でもあるこの花については、少し丁寧にお話しさせてください。
つぼみが風船のようにふくらむ
桔梗のいちばん愛らしいところは、花ではなく、つぼみだと私は思っています。
桔梗のつぼみは、五枚の花びらの縁がぴったりと貼り合わさった状態で、空気を含んでぷっくりとふくらみます。まさに小さな紙風船。指で軽く押すと、かすかに弾力があります。そして開くときは、その貼り合わせがほどけて、五角形の星形にぱっと広がるのです。
この性質から、桔梗の英名はBalloon flower(バルーンフラワー)と言います。風船の花。名前をつけた人も、あのつぼみに心を奪われたのでしょう。
切り花の桔梗を買うときは、開いた花だけでなく、つぼみが混じっているものを選ぶことをおすすめします。家に帰ってから、あの風船がひらいていく瞬間に立ち会えるからです。数日かけて、下のほうから順に開いていきます。
名前と色のこと
「キキョウ」という名は、中国から伝わった生薬名「桔梗」を日本語読みしたものが定着したとされています。根は生薬として用いられてきました。
色については、日本の伝統色に「桔梗色(ききょういろ)」という名があります。青みがかった深い紫。この色に花の名がついているというのは、それだけこの花が長く親しまれてきた証拠でしょう。花期は六月から九月ごろで、実は真夏から咲いています。「秋の花」として語られながら、夏の盛りにも咲いている。そのあたりも、桔梗の不思議なところです。
花言葉としては「変わらぬ愛」「誠実」「気品」などが挙げられます。派手さのない、まっすぐな言葉ばかりが並ぶのは、この花の佇まいそのものだと思います。
野生の桔梗は、減っている
そしてもうひとつ、知っておいていただきたいことがあります。
花屋の店先にこれだけ普通に並んでいる桔梗ですが、野生の桔梗は環境省のレッドリストに掲載されています。長らく絶滅危惧II類(VU)に区分されていましたが、2025年(令和7年)3月に公表された第5次レッドリストで、準絶滅危惧(NT)に見直されました。準絶滅危惧は「現時点での絶滅の危険度は小さいものの、生息条件の変化によっては絶滅危惧に移行しうる」区分。絶滅危惧種の一歩手前、いわば要注意のリストです。危険がなくなったわけではありません。
そして、都道府県ごとの状況は、国のランクよりずっと厳しいのが実情です。とくに私たちの足元、東京都の状況には考えさせられます。東京都のレッドリスト(本土部・2023年見直し版)では、区部——つまり23区では「絶滅」、南多摩・西多摩をはじめ本土部では絶滅危惧IA類(もっとも危険度の高い区分)とされています。ほかにも群馬・埼玉・熊本・宮崎などが最上位ランク、京都府では「絶滅寸前種」に選定されています。
神楽坂を歩いても、野生の桔梗に出会うことはありません。店の名前にいただいている花が、この街ではもう自生していない。そう思うと、店先の桔梗を並べる手つきが、少しだけ変わる気がします。
減少の原因としては、園芸目的の採集、草地の開発、そして手入れされなくなった草地が藪や林に移り変わっていく「遷移」が指摘されています。桔梗はもともと、日当たりのよい草地に生える植物でした。人が草を刈り、火を入れ、明るい草原を保っていた時代には、桔梗の居場所がたくさんあったのです。その暮らしが変わったことで、居場所が失われていきました。
一方で、園芸品種は広く栽培され、鉢物としても切り花としても、たくさん流通しています。矮性のもの、八重咲き、白花、絞り模様のものなど、品種も豊富です。
この「野では危うく、園芸では豊か」というねじれは、桔梗という花を考えるときに、どうしても外せない事実です。私たちが店で扱っているのは栽培されたもので、そのこと自体に問題はありません。けれど、この花がかつては野に当たり前にあり、今はそうではないという背景は、知ったうえで飾りたい。そう思っています。
この矛盾には、はっきりした理由があります。環境省の「レッドリスト作成の手引」には、評価の対象は野生下の個体であり、栽培下の個体は対象としないと明記されているのです。つまりレッドリストが見ているのは山野に自生している株だけで、ハウスや畑で育てられた園芸品種は、どれだけ流通していても評価に入りません。だから「花屋には豊富にある」と「野生では減っている」は、矛盾なく同時に成り立ちます。
そして減少の理由として環境省が挙げているのが、草地の遷移(手入れされなくなった草地が林に変わること)、管理の放棄、そして園芸目的の採集です。掲載理由には「分布域の一部において、過度の採取圧による圧迫が指摘されている」とあります。山から採ってしまうことが、名指しで挙げられている——これは花に関わる者として、きちんと知っておきたいことだと思っています。園芸店で売られている株を買って育てることと、山の株を掘ってくることは、まったく別のことなのです。

店の名前に桔梗をいただいている以上、この話は言わないわけにいかないと思っておりまして。野の花を守るというのは、私ども花屋にできることは限られておりますけれど、少なくともお客様に「そういう花なんですよ」とお伝えすることはできますから。
切り花としては——七草の中で、ススキに次いで手に入りやすい花です。夏から秋にかけて、多くの花屋に並びます。茎が素直で、水も比較的よく上がります。切り口から白い乳液のようなものが出ることがありますので、水に入れる前に軽く洗い流すと、水の傷みが抑えられます。
なぜ秋の七草は「見る」ものなのか
七つを見終えたところで、もう一度あの問いに戻ります。なぜ、秋の七草は食べずに見るのでしょう。
単純に「食べられないから」という説明はできます。萩も桔梗も女郎花も、食用として親しまれてはきませんでした。けれど、それだけでは説明が足りない気がします。食べられない草花は、他にいくらでもあるのですから。なぜこの七つが選ばれ、なぜ千三百年も記憶されてきたのか。
見立てるという楽しみ方
日本の文化には、「見立て」という考え方があります。目の前のものを、別の何かに重ねて見る。ススキの穂を稲穂に見立てて豊作を祈る。おはぎの粒を萩の花に見立てる。庭の石を山に、砂を水に見立てる。
秋の七草は、この見立ての対象として、実によくできています。どれも姿が細く、色が淡く、風に揺れる。つまり、見る人の想像力が入り込む隙間がたくさんあるのです。バラのように完成された花は、見立てにくい。バラはバラでしかありません。でも、ススキの穂は稲にも、尾にも、白髪にも、煙にも見える。
欠けたもの、過ぎゆくものを愛でる
もうひとつ、秋の七草に共通しているのは「盛りが短い」ことです。萩はすぐ散ります。撫子の花びらは繊細で傷みやすい。ススキの穂は、開いたそばから飛んでいきます。
この、じきに終わってしまうという性質を、日本人は欠点として扱いませんでした。むしろ、そこを味わうべきところとして受け止めてきた。侘び、寂び、無常。呼び方はいろいろありますが、要するに「変わっていくことそのものが美しい」という見方です。
秋の七草を「食べる」ことは、その変化を止めてしまうことでもあります。摘んで、刻んで、粥にしてしまえば、その先の変化はありません。見るだけにしておけば、咲いて、揺れて、散るところまで、全部を見届けられる。
憶良が「七種の花」と数えて、それ以上何もしなかったこと。あの歌に感想も教訓もついていないこと。それは、たぶん意図的な引き算だったのではないか——そんなふうに、私は勝手に想像しています。数えて、名前を呼んで、そこで手を止める。それが秋の草花に対する、いちばん礼儀正しい向き合い方なのかもしれません。
この「見て楽しむ」という感覚は、茶の湯の世界でとくに大切にされてきました。茶室に飾る花——茶花については、茶花の話——秋を待つ4つの花でも触れていますので、あわせてご覧いただけたら嬉しいです。秋の七草と重なる花も出てきます。
家で楽しむ生け方——七つそろえなくていい
さて、いちばん実用的なところに参りましょう。秋の七草を、家でどう楽しむか。
最初にはっきり申し上げておきます。七つ全部をそろえようとしないでください。
これは花屋としての正直な話です。葛はほぼ流通しませんし、藤袴も数が限られます。萩は扱いが難しく、カワラナデシコに近い姿のものも常にあるとは限りません。仮に全部集められたとしても、七種類を一つの花瓶に詰め込むと、たいてい雑然として、かえって秋らしさが薄れてしまいます。
秋の七草は、コレクションではありません。そろえることに意味があるのではなく、そこに秋があると感じられるかどうかがすべてです。
基本は「ススキ+一種」
いちばんおすすめしたい形が、これです。ススキを一〜三本と、色のある花を一種類。それだけ。
ススキは縦の線を作り、空間に高さを与えます。そこに桔梗の紫、あるいは女郎花の黄色が一色だけ入ると、途端に景色になります。色を増やさないことが肝心です。二色までにとどめると、和の空気が保たれます。
- ススキ+桔梗——もっとも王道。白銀と紫。品よくまとまります
- ススキ+女郎花——黄色が入って明るく。秋の日差しのような組み合わせ
- ススキ+りんどう——七草ではありませんが、手に入りやすく秋らしい紫
- ススキ+吾亦紅(われもこう)——これも七草外ですが、渋い赤茶が秋の深まりを出します
- 桔梗一種のみ——数本を無造作に。これだけでも十分に成立します
七草にこだわりすぎず、その季節に手に入るもので組むこと。それが、いちばん秋らしい花になります。憶良も、野にあったものを数えただけなのですから。
器は、静かなものを
秋の草花は線が細いので、器が主張しすぎると花が負けます。焼き締めや粉引きのような、色数の少ない陶器がよく合います。ガラスなら透明か、うっすら色のついたもの。
専用の花器がなくても構いません。湯呑み、そば猪口、麦茶のガラスポット、口の細い酒瓶。家にあるもので十分です。むしろ、生活の道具に草花を挿すほうが、秋の七草の気分には合っている気がします。
生けるときの三つのコツ
- 高さを変える——全部を同じ長さで切らない。長・中・短の三段があると、自然に見えます
- 詰め込まない——花と花のあいだに、空間を残してください。秋の草花は、隙間があってこそ揺れます
- 正面を決める——三六〇度から整える必要はありません。よく見る側だけ整えれば十分です
ぎっしり詰めた花束は、それはそれで華やかですが、秋の七草の趣とは違う方向です。物足りないくらいでちょうどいい。飾ったあと「少なすぎたかな」と思ったら、たぶん正解です。
長持ちさせるために
秋の草花は、全体に水が下がりやすい傾向があります。とくに萩や女郎花は、うっかりすると翌日にはうなだれてしまうことがあります。
- 持ち帰ったら、すぐに水の中で茎を切り直す(水切り)
- 水に浸かる部分の葉は取り除く。葉が水に入ると水が傷みます
- 水は少なめでも構いませんが、こまめに替える。女郎花はとくに
- 直射日光とエアコンの風を避ける。九月はまだ室温が高いので要注意です
もう少し詳しい手当ての方法は、切り花を長持ちさせる方法まとめにまとめてあります。水切りのやり方や、水が下がってしまったときの応急処置も書いていますので、よろしければ。

(散った萩の花びらを、テーブルにそのまま残しておくのも、けっこう好きなんだけどな)
それも、ひとつの楽しみ方だと思います。散った花びらまで含めて景色と見る。掃除の手間は増えますが、そのぶん季節が長く続きます。
秋の七草の覚え方
最後に、覚え方をひとつご紹介します。七つの頭文字をつなげる方法が、いくつか知られています。
- 「おすきなふくは」——オミナエシ・ススキ・キキョウ・ナデシコ・フジバカマ・クズ・ハギ(お好きな服は)
- 「はすきなおふくろ」——ハギ・ススキ・キキョウ・ナデシコ・オミナエシ・フジバカマ・クズ
- 五・七・五で——「はぎ・ききょう くず・ふじばかま おみなえし おばな・なでしこ 秋の七草」
いちばん有名なのは「おすきなふくは」でしょうか。声に出して二、三回繰り返すと、案外すんなり入ります。
ただ、覚え方を知ることより、実際にその花を見ることのほうが、ずっと確実に記憶に残ります。ススキの穂を触った感触、桔梗のつぼみの弾力、藤袴を乾かしたときの甘い香り。そういうものは、忘れません。
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秋の花のこと、神楽坂の桔梗屋で
桔梗屋は、東京・神楽坂の花屋です。店の名は、この記事でお話しした桔梗からいただきました。
神楽坂は、坂と路地の多い町です。石畳の細い道を曲がると、急に静かになる。そういう場所に店を構えていると、季節の変わり目がよく分かります。八月の終わりに風の質が変わって、日暮れが少しずつ早くなる。そのころに、店先に並ぶ花も入れ替わっていきます。

「秋の七草を飾りたいんですが」とおっしゃっていただければ、その日にある中から、いちばん近いかたちを組ませていただきます。七つそろわなくても、秋はちゃんと作れますので。器の大きさや、置く場所を教えていただけると、より合うものをご提案できます。
秋の草花は、その日に何が入っているかで顔ぶれが変わります。だからこそ、店に来ていただいて、実際に見ながら選ぶのがいちばんです。「これとこれを合わせたらどうなりますか」と聞いていただければ、その場で束ねてお見せします。
お月見の飾りに、お茶席の花に、あるいは何の理由もなく、ただ秋を家に入れたいという方に。どうぞお気軽にご相談ください。
おわりに——数えるところで、手を止める
秋の七草について書きながら、ずっと考えていたことがあります。
私たちは、何かを好きになると、つい手を伸ばしたくなります。摘みたい、集めたい、そろえたい。七つあると聞けば、七つ全部を見たくなる。それは自然な気持ちです。
でも秋の七草は、そうではない楽しみ方を千三百年ぶん、教えてくれています。数えて、名前を呼んで、そこで止める。摘まなくていい。全部そろえなくていい。ただ、そこに咲いているということを、確かめるだけでいい。
今年の秋、道端でススキが揺れているのを見かけたら、少し立ち止まってみてください。その足元に、桔梗の紫や、女郎花の黄色が混じっているかもしれません。もし見つけられたら、それはもう、憶良と同じことをしたということです。
そして、家にも少しだけ秋を入れたくなったら、ススキを一本、桔梗を一輪。それだけで、部屋の空気が変わります。花屋として、これは自信をもってお伝えできることです。
秋の野は、今年も咲いています。
KIKYOYA FLOWERS
東京・神楽坂の花屋 桔梗屋
季節のお花、観葉植物、贈りもののご相談を承っています。
ご自宅用の一輪から、お祝い・お供えのお花まで、どうぞお気軽に。

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