東京都文京区関口、地下鉄の江戸川橋駅からほど近い場所にある桔梗屋の二号店「江戸川橋店」が、二〇二六年九月のはじめに、開店から四年を迎えました。
神楽坂の本店から歩いて行ける距離に、もう一軒。そう決めて店を開けたのが二〇二二年の九月初旬のことでした。あれから四回、この街で春の桜を見て、四回、夏の暑さをやり過ごし、四回、神田川沿いの木々が色を落とすのを眺めてきたことになります。
この記事は、その四年のご挨拶です。何かの割引や催しのお知らせではありません。ただ、四年という区切りに、正直なところを書いておきたいと思いました。うまくいった話ばかりではないので、少し不格好な文章になるかもしれません。それでも、いま江戸川橋店を使ってくださっている方にも、まだ店の前を通り過ぎているだけの方にも、この街で花屋を続けてきた四年のことを知っていただけたらと思います。
江戸川橋店、四周年を迎えました
まずは、この四年のあいだに江戸川橋店をご利用くださったすべての方に、お礼を申し上げます。
花屋というのは、少し不思議な商売だと思うことがあります。生活に絶対に必要なものを売っているわけではありません。食べ物のように毎日いるものでもなければ、道具のように長く使えるものでもない。買っていただいた花は、早ければ数日、長くても二、三週間で終わってしまいます。それでも人は花を買いに来ます。誰かの誕生日に、送別会に、仏壇に、あるいは何の理由もなく、ただ部屋に一輪ほしくなって。
その「わざわざ寄る」という行為の積み重ねだけで、店というものは四年続きます。逆に言えば、寄っていただけなければ一年ももちません。四周年というのは、店ががんばった記録ではなく、この街の方が四年ぶん寄ってくださった記録なのだと思っています。
桔梗屋という屋号は、店主の曾祖父の代からのものです。その名前の由来については別の記事に書いていますので、よろしければそちらもご覧ください。 桔梗屋という屋号の由来はこちらの記事に書いています。
ここでは、二号店である江戸川橋店の四年と、この店が根を下ろした関口・江戸川橋という街のことを書きます。
最初の一年——お客様が一日に数人だった頃
最初に、いちばん書きにくいことから書きます。
江戸川橋店を開けたばかりの頃、店はほとんどお客様が来ませんでした。

認知してもらうまでは、来店が一日に数人という日もありました。この場所で店をやっていていいのだろうか、と思ったこともあります。
花屋は、開店したその日から花が並びます。並んでしまいます。仕入れた花は、売れても売れなくても同じ速さでひらいて、同じ速さで終わっていきます。お客様が来ない日でも、朝には水を替え、切り戻しをして、傷んだ葉を落とし、店先をきれいにして、その日の花を並べる。やることは一日も減りません。
それでいて、夕方になっても数えるほどしかお客様が来ない。この作業は誰のためにやっているのだろう、という考えが頭をよぎる日がある。開店したばかりの店というのは、そういう時間の中にあります。
新しい店は、まず「そこに店があること」を知られていません。当たり前のことのようですが、実際に自分の店でそれを経験すると、想像していたよりずっと重たいことでした。花は毎日ちゃんときれいなのに、それを見る人がいない。品揃えの問題でも、値段の問題でもなく、ただ知られていない。その一点だけで、店は静かになります。
神楽坂の本店があったから続けられた、という面は正直にあります。本店には長くご贔屓にしてくださる方がいて、その積み重ねがある。けれど、二号店にはそれがゼロからでした。同じ屋号、同じ仕入れ、同じやり方でも、街が違えばまったく別の店として一からはじまるのだということを、このときはじめて身をもって知りました。
「石の上にも三年」ということわざのこと
そういう時期に、頭に浮かんでいたのが「石の上にも三年」という古いことわざでした。四周年の記事を書くにあたって、この言葉の由来をあらためて調べてみたので、少し寄り道して書いておきます。
意味
「石の上にも三年」は、冷たい石の上でも三年座り続ければやがて温まる、という比喩から、つらいことでも辛抱強く続けていればいつか報われる、という意味で使われる日本のことわざです。江戸時代の初期にはすでに「石の上にも三年いれば温まる」という形で使われていたとされます。
由来には二つの説がある
由来としてよく挙げられるのは、次の二つです。
- インドの婆里搜(バリシバ)尊者の説:古代インドの僧が八十歳で出家したのち、三年のあいだ石の上で座禅を組み、悟りを開いたという逸話にちなむという説。「三年」という数字がそのまま出てくるのはこちらです。
- 中国の達磨大師の説:中国禅宗の開祖・達磨大師が、洞窟の壁に向かって九年間座禅を組み続けたという「面壁九年(めんぺきくねん)」の伝説にちなむという説。九年という凄まじい話が、「冷たい石でも三年座れば温まる」というわかりやすい言い回しに形を変えて広まったとも言われます。
どちらが本当かは定説がなく、二つの説が並んで紹介されるのが一般的です。ただ、どちらの説にも共通しているのは、座っていた本人は、三年後にこうなると知って座っていたわけではないということだと思います。悟りが開けると保証されていたから続けたのではなく、続けた結果としてそこに着いた。ことわざはいつも結果から語られるので温かい話に聞こえますが、その最中にいる人にとっては、ただ石が冷たいだけの時間です。
念のために書き添えると、これは「つらくても三年は我慢しろ」という精神論としてお伝えしたいわけではありません。合わない場所からは離れたほうがいいこともあります。ここではあくまで、店の側の実感として、この言葉が近かった、という話です。
開店してしばらくの江戸川橋店にとって、この言葉は励ましというより、ただの目安でした。三年やってみて何も変わらなかったら、そのときは考えよう。そのくらいの、頼りない目安です。
三年目に変わったこと——常連のお客様がついてくれた
結論から言えば、変わりました。

「石の上にも三年」ではないですが、三年やっていると常連のお客様がついてくれて、最初の一年の頃とはまるで違う結果にすることができました。
何か特別なことをしたわけではありません。品揃えを大きく変えたわけでも、目立つ仕掛けをしたわけでもない。ただ、毎朝おなじように水を替えて、おなじように花を並べて、店を開け続けた。それだけの時間が三年ぶん積み上がったとき、街のほうが店を覚えてくれていた、という順番でした。
花屋にとっての「常連のお客様」というのは、たぶん、ほかの業種とは少し意味が違います。毎週来る方ばかりではありません。月に一度、仏花を買いにいらっしゃる方。季節が変わる頃に玄関用の枝を買っていかれる方。年に数回、大切な日の前に寄ってくださる方。頻度はさまざまですが、共通しているのは、その方の暮らしの中に「花を買う」という予定が入っていて、その行き先としてうちの店が選ばれているということです。
これは一日や二日では起こりません。一度目に来ていただいて、その花が家で長く楽しめて、それから何ヶ月かして次の機会が来て、そのときにまた思い出していただく。この一往復に、どうしても季節ひとつぶんの時間がかかります。三年というのは、その往復が何度か重なって、ようやく「いつもの花屋」になるのに要る時間だったのだと、いまは思います。
開店当初の静かな時間は、無駄ではなかった、と言うつもりはありません。あの頃は本当に静かで、正直しんどい時期でした。ただ、その時間にやっていたこと——花を切り戻して、水を替えて、店先を掃いて、来た方にちゃんと向き合うこと——は、三年後に効いてくることだったのだとは思います。
江戸川橋・関口という街のこと
ここからは、江戸川橋店のある街のことを書きます。四年この街にいて、少しずつ調べたり教えていただいたりしたことです。
江戸川橋という場所は、東京の中ではあまり派手に紹介されない街だと思います。観光地として名前が挙がることは多くありません。けれど、歩いてみると、川があり、桜並木があり、坂の上には広い庭園があり、通り沿いには印刷や製本の工場が並んでいる。名所と生活と仕事が、狭い範囲に折り重なっている街です。
文京区なのに「江戸川」——地名の由来
最初に不思議に思うのは、名前です。江戸川区は東京の東の端にあるのに、なぜ文京区に江戸川橋があるのか。
答えは、いま神田川と呼ばれている川の、昔の呼び名にあります。かつてこの川は、区間ごとに違う名前で呼ばれていました。上流側は「神田上水」、中流のこのあたりは「江戸川」、そして下流が「神田川」。江戸川橋というのは、その中流の「江戸川」に架かっていた橋の名前で、駅名も町の通称もそこから来ています。
神田川そのものは、三鷹市の井の頭池を水源として東へ流れ、隅田川に合流する全長およそ二十四・六キロメートルの一級河川です。都区部の中小河川としては最大規模で、途中で善福寺川や妙正寺川を合わせながら、東京の真ん中を横切っていきます。江戸川橋店の前を流れているのは、その長い川のちょうど中ほどにあたる区間ということになります。
「関口」という地名と、神田上水の大洗堰
店の住所である「関口」という地名も、この川から来ています。
江戸時代、この場所には関口大洗堰(せきぐちおおあらいぜき)という堰(せき)がありました。堰、つまり「関(せき)」の落とし口があったから「関口」。地名の由来としては、かなり素直な部類だと思います。
この堰は、江戸の暮らしを支えた重要な設備でした。江戸の上水道である神田上水は、井の頭池の水を引いてきて、この関口の堰で流れを二つに分けます。左手に分けた水が上水として水戸藩の江戸上屋敷(いまの小石川後楽園のあたり)を経由し、そこから神田や日本橋の町へ配られていきました。右手に流した余った水のほうが、そのまま川として下っていく——これが「江戸川」と呼ばれた流れです。つまり、江戸川橋という地名は、大洗堰で分けられた余水の呼び名にまでさかのぼります。
大洗堰は一六二九年より前には造られていたとされる石造りの堰で、長さおよそ十八メートル、幅十二メートルあまりという記録が残っています。神田上水は明治三十四年(一九〇一年)、近代的な浄水設備の完成にともなって役目を終えました。いま堰そのものはありませんが、川沿いに石を用いた記念の遺構が残されていて、水位を調節していた仕組みの一端をうかがうことができます。
店の前を流れている川が、四百年前は江戸の水道だった。そう思って眺めると、いつもの川がすこし違って見えます。
関口芭蕉庵——松尾芭蕉が水道工事に関わっていた場所
この神田上水の工事に、意外な人物が関わっていました。松尾芭蕉です。
芭蕉は延宝五年(一六七七年)から延宝八年(一六八〇年)までの三年間、神田上水の改修工事に携わり、この地にあった「龍隠庵(りゅうげあん)」と呼ばれる庵に住んでいたと伝えられています。俳諧で名を成す前の時期で、いわば生活のための仕事としてこの川べりにいたことになります。
のちに芭蕉を慕う人々がその跡地に庵を建て、それが現在の関口芭蕉庵につながっています。建物は焼失と再建を経ていて、いまあるものは第二次世界大戦後に建て直されたものです。神田川沿いの斜面に沿った小さな庭で、池と木立と、句碑があります。入っても五分十分で見て回れる広さですが、坂の下の車の音がすっと遠のく場所です。
ちなみに芭蕉がこの地にいたのも三年です。ことわざの話のあとにこれを知って、少しおかしくなりました。
椿山荘と目白台——坂の上の風景
神田川から北へ、急な坂を上がると、そこは目白台という高台です。
この坂の上、関口台のあたりは、南北朝の頃にはすでに椿が自生する景勝地として知られ、「つばきやま」と呼ばれていたと伝わります。明治十一年(一八七八年)、明治政府の中心人物のひとりだった山縣有朋がこの土地を私財で購入し、庭園と邸宅をつくって「椿山荘」と名づけました。いまのホテル椿山荘東京の庭園がそれです。山縣は作庭に一家言ある人物で、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵とあわせて「山縣三名園」と呼ばれています。
目白台という地名の由来にはいくつかの説があります。よく挙げられるのは、この高台に目白不動があったことによるという説です。江戸開府の際、天海が江戸を守護するために五体の不動明王像をつくり、それぞれ目の色を赤・黒・青・白・黄としたという話があり、その「目の白い不動」が目白不動尊で、地名のもとになったというものです。ほかに、かつてこの地で白馬の名馬が生まれたことによるという説、三代将軍徳川家光が目黒に対して目白と呼ぶよう命じたという説も伝えられています。諸説あり、どれか一つに決まっているわけではありません。
この街を歩いていて気持ちがいいのは、この高低差だと思います。川沿いの平らな道を歩いていて、ふと横を見ると急な坂や階段があり、上がるといきなり静かな屋敷町に出る。下は生活と商売の場所で、上は屋敷と学校の場所。江戸の頃からの土地の使われ方が、いまもそのまま地形として残っています。
音羽通りと護国寺——まっすぐな門前の道
江戸川橋の交差点から北へ、護国寺までまっすぐ伸びているのが音羽通りです。谷筋を通る、驚くほど直線的な道で、初めて歩くと「なぜこんなにまっすぐなのか」と思います。
これは、護国寺の参道として造られた道だからです。護国寺は天和元年(一六八一年)、五代将軍徳川綱吉が生母・桂昌院の願いによって建立した寺で、音羽通りは将軍が参詣する御成道でもありました。
音羽という地名の由来にも、桂昌院が関わります。元禄十年(一六九七年)にこのあたりが護国寺の寺領となって町屋にされたものの、なかなか人が入らず、桂昌院の信任が厚かった奥女中の「音羽」という女性にこの門前町が与えられたことから「音羽町」と名づけられた、と伝えられています。別に、護国寺を京都の清水寺になぞらえて、清水の音羽の滝にちなんだという説もあります。これも諸説あるところです。
面白いのは、音羽の町名の番地が、江戸城の側からではなく護国寺の側から数えられていることです。江戸の町はふつう江戸城を起点に番地を振っていくので、これは例外にあたります。それだけ、この道が寺のための道だったということなのだと思います。
印刷と製本の街
音羽から江戸川橋にかけて歩くと、印刷会社や製本所の看板がとても多いことに気づきます。夕方、路地からインクの匂いがしてくることもあります。
印刷・製本業は文京区を代表する地場産業で、区内製造業の出荷額のおよそ七割を占めているとされます。とりわけ、出版社が集まる音羽から江戸川橋にかけての一帯が盛んです。
なぜここに集まったのか。背景にあるのは、この地域の学校の多さです。明治になって、政府が近代国家をめざして教育に力を入れる方針を打ち出すと、区内の広い大名屋敷の跡地が次々と学校になっていきました。東京大学、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)など、教育機関がこの一帯に集まります。すると教科書や学術書を出す出版社が周囲に集まり、それを刷る印刷所と、綴じる製本所が、さらにその周りに集まった。そういう順番でできあがった街です。
花屋としてこの街にいて実感するのは、朝が早く、街に働く人の気配があることです。搬入のトラックが通り、台車が行き来する。買い物のついでではなく、仕事の行き帰りに花屋の前を通る人が多い街だと思います。
神田川の桜並木と江戸川公園
そして、この街の一年でいちばん人が出るのが、春です。
神田川沿いの桜並木と、川に沿って東西に細長く伸びる江戸川公園。関口台地の南斜面にあたる場所で、江戸川橋駅から歩いて数分です。
この桜には歴史があります。明治十七年(一八八四年)頃、旧西江戸川町の大海原氏が自宅前の土手に桜を植えたのがはじまりと伝えられ、最も多いときには石切橋から大曲までのおよそ五百メートルの区間に二百四十一本のソメイヨシノが並んでいたといいます。当時は桜の名所として「新小金井」と呼ばれ、夜桜見物の船まで出るほどの賑わいだったそうです。
昭和五十八年(一九八三年)からの神田川の河川改修にともなって桜は植え替えられ、翌五十九年(一九八四年)に公園も改修されました。いま咲いているのは、その世代の桜ということになります。百四十年ほど前に一人の方が土手に植えた木が、いまも同じ川沿いで花見客を集めている。花を扱う仕事をしていると、この時間の長さに少し圧倒されます。
四月のはじめ、店の前を通る人の歩く速度が明らかに落ちます。みんな川のほうを見ながら歩いている。あの一週間ほどが、この街のいちばん華やかな時間です。
花屋として、街に根づくということ
四年やってきて思うのは、花屋という店は、街の一年に合わせて中身が変わっていく店だということです。同じ場所で同じ看板を出していても、並んでいるものは三ヶ月経つとほとんど入れ替わっています。
一般的な話として、季節ごとに店先に並びやすい花を挙げてみます。地域や年によって前後しますし、その年の天候で入荷はかなり変わります。あくまで目安としてご覧ください。
春(三月〜五月)
一年でいちばん花の種類が多くなる時期です。チューリップ、ラナンキュラス、スイートピー、フリージア、アネモネといった球根や春の一年草が並び、少し進むとシャクヤクやカーネーションが出てきます。枝ものでは桜、コデマリなど。色数が多く、店先がいちばん賑やかになります。
夏(六月〜八月)
暑さとの勝負になります。ヒマワリ、リンドウ、ケイトウ、グラジオラス、トルコキキョウなど、暑さに比較的強いものが中心です。枝ものは、春の桜が終わると、ドウダンツツジの青々とした枝に切り替わります。夏場は水が傷みやすいので、家に持ち帰ってからは、涼しい場所に置く・水を毎日替える・切り口を少し切り戻す、といった手当てで持ちがかなり変わります。花瓶の水は浅めに、が夏の目安です。
秋(九月〜十一月)
色が落ち着いてきます。ダリア、キク類、ワレモコウ、ススキ、コスモス、リンドウ。実ものや枝ものが増えて、束ねたときの雰囲気が一気に秋になります。お彼岸の時期には仏花のご用意も増えます。気温が下がる分、春夏より花持ちがよくなる季節でもあります。
冬(十二月〜二月)
室内の時間が長くなる季節です。シクラメンや葉ボタン、ポインセチアといった鉢もの、ユリやアマリリス、ヒヤシンス、そして年末年始には松や千両、南天などの正月花。二月には早咲きの枝ものが入ってきて、店先だけ少し先に春になります。
こうして並べてみると、花屋は街より少し先の季節を置いている店だとわかります。桜が咲く前に桜の枝が入り、暑くなる前にヒマワリが来て、年が明ける前に松が来る。お客様は買い物のついでに、少し先の季節を見ていくことになります。
そして、店には街の一年の行事がそのまま入ってきます。三月は卒業と送別、四月は入学と就任、五月は母の日、夏はお盆、秋はお彼岸、年末は正月の準備。この街には学校も会社も工場も寺社もあるので、そのすべてが少しずつやってきます。四年たつと、去年もこの時期にこの方が来られた、という記憶が重なりはじめます。店が街に根づくというのは、たぶんこの記憶が重なっていくことなのだと思います。
これからのこと
四年たって、開店した頃とはまるで違う店になりました。それでも、店として思っていることは、ある意味では最初の頃とあまり変わっていません。

まだまだ江戸川橋店は知られていないと思っています。もっとたくさんのお客様に知っていただきたい。
これは謙遜ではなく、実際にそうだろうと思っています。この街には、通勤で毎日この道を通っていて、それでも花屋があることに気づいていない方がたくさんいます。四年前と違って店の前は静かではなくなりましたが、それはこの街に暮らす方・働く方のごく一部に届いたということでしかありません。
なので、これからやることも、たぶん最初の四年と同じです。朝に水を替えて、切り戻しをして、その日の花を並べて、店を開ける。それを続けながら、この記事のように、店のことや街のこと、花のことを少しずつ書いていこうと思います。
花のことで迷ったら、目的だけ決めて手ぶらでお越しください。「予算はこのくらいで」「渡す相手はこういう方で」「仏花を」といったことだけ伺えれば、その日いちばん状態のよい花からお選びします。花の名前を決めてくる必要はありません。
神田川沿いの道は、四月には桜が咲き、夏には水面が光り、秋には落ち葉が流れ、冬には風が抜けます。坂を上がれば椿山と呼ばれた高台があり、下れば四百年前に江戸の水を分けていた堰の跡がある。そういう街の、川沿いの一角で、五年目の店を開けています。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
KIKYOYA FLOWERS
東京・神楽坂の花屋 桔梗屋
季節のお花、観葉植物、贈りもののご相談を承っています。
ご自宅用の一輪から、お祝い・お供えのお花まで、どうぞお気軽に。
